2019/12/30

116)越市長と後継者~目的と手段~

 ここに書くのは事実ではなく私の推測です。越市長と後継者はずっと以前から密室協議を重ね、両者の間で市政を引き継ぐこと、その大義名分の説明の仕方、発表の時期などを細かく相談してきたのだと私は考えるに至りました。越直美氏の母だと名乗る嘉田由紀子氏や後継者を支援する職員OBも早くから協議に加わっていたことでしょう。

 本ブログ(No100「後継者」)で私は、越市長の庇護を失うこととなる後継者が一か八かの大勝負に出たと書きましたが、その後の動きを見ていて、実はもっと周到な計画が練られていたことに気づきました。もちろんこうした動きは謀議ではなく選挙戦略ですから何の問題もありません。むしろ「よくやるなあ」と感心するほどです。

 しかし、この推測が事実であるなら(事実と多少離れても以下の論旨に変わりはないのですが)、ここに、目的のために手段を択ばない人々の面目躍如たるものがあります。そして後継者が当選した場合、こうした政治哲学(?)が大津市政にも避けがたく反映されるであろう。これが私の最大の懸念です。

 越市長は「やりたいことを全てやったので後継者など必要としない。後継者に委ねるくらいなら自分自身でやる。」と述べました。後継者は「有力な候補者が現れたので職員を守るために立候補を決意した」と説明したそうです。これらの発言と矛盾する私の推測が見当違いなのでしょうか。それとも、越市長や後継者陣営にとっては、この程度のフィクションは「あり」なのでしょうか。

 一般的に、「目的」は、その自己実現を図るための「手段」に奉仕されつつ、自ら、より高次の目的の手段となります。目的と手段とが互いを孕みあって連鎖的に育つ「マトリョーシカ構造」は、特に「まちづくり」の分野で重要な意味を持っています。なぜなら、市政運営の最大の目的は「市民福祉の増進」(あるいは「公の実現」)であり、その実現は遥かに先のこと。そこに最接近するまで「全てが手段」です。多数の手段を順番に次の暫定目標に変えつつ、私たちはマトリョーシカを育てなければなりません。

 株式会社の場合、株主の利益確保という最終目標までの「距離が近い」という点において、市役所と比較になりません。もちろん法人の社会貢献や従業員の生活保障もありますが、株式会社という仕組みにおいては二次的な問題に過ぎず、目的と手段の関係もずっとシンプルです。

 こうした事情に加え、市役所の場合は、相反する多数の利益の調整を図ることが主要な業務の一つです。したがって、行政においては「手段」こそ重要であると私は思うのです。「目的のために手段を択ばない手法」と「公務」とは原理的に相いれません。これは「市場原理」と「公」の問題にもつながります。

 さて、越市長は「行財政改革」の一環として市民センター(支所および公民館)の統廃合を試みました。その途中、所管部長が忖度に走ったか市民の請願書を突っ返すという恥態をさらしました(その後受け取りに転換)。越市長にとっては行財政改革が「目的」、市民センター統廃合が「手段」だったのでしょうが余りに粗雑な見立てです。(越市長の就任当初、私がまだ総務部長であった頃から、行財政改革は目的か手段か、が議論のネタになっていたことを思い出します)。

 この問題では、市民センター自体を一つの目的であると感じる人が多数おられることが明らかとなり、越市長の強引な手法に対する批判も続出して結論は先送りとなりました。これを傍で見ていた後継者は、市民センター存続の方向を打ち出したようです。さきほど述べた、「目的も手段も相対的なものである」という観点からは、一つの立場が絶対的に正しいことはあり得ません。何といっても手段を重視すること、現場の声を聞くこと、丁寧に物事を進めることが大切だと思います。

 一方、後継者において目的と手段はいかに意識されているのでしょうか。私の見聞の限りでは、越市長の市政運営のやり方と後継者の考えは同じではありません。しかし彼はまず職員として市長に仕えなければならない。そして長期展望のもと、自分の目的の成就の手段として越市長に評価されるような仕事をしようと努めたのではないか。これは後継者に対するとても好意的な一つの見方です。

 しかし、後継者は、公文書および不祥事の隠ぺいに深く関わることとなりました。越政権下において信念を曲げないため、あるいは正直であるためにトバされたりヤメたりした職員は少なくありません。一方で「過剰適応」して重用されている職員もおり、後継者がその最右翼であることは衆目の一致するところです。

 そして公文書裁判において、越市長と後継者は運命共同体となりました。もし、それゆえの後継指名、すなわち「越市長の軟着陸」と「後継者の安全確保」を図るバトンタッチであるならば、これまた目的のためには手段を択ばない「模範事例」としか言いようがありません。「公」から「私」への「換骨奪胎事例」ともいえるでしょう。私には彼らの動きがそのようにしか見えません。
 特に行政の分野において「手段」を重視しない人は信頼に値しないと私は考えます。



 




 

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